カタカナ語をなるべく使わない

「十二国記シリーズ」(小野不由美著、新潮文庫)の既刊を全て読みました。

作品全体に心地よい緊張感が漂っていました。

これは、作者の言葉の選び方に起因する、と思います。
同じ物事を言い表すために、最近では、もっと簡単な表現が用いられているところを、敢えて時代を遡って、難しい表現をしているのではないか。
それが決して、徒(いたずら)に難解な言葉を弄(もてあそ)んでいるのではなく、ひとつひとつの言葉を吟味して大切に扱っている姿勢が伝わってきます。
その積み重ねが、作品全体に、ピンと張り詰めた緊張感を生むのだと思います。

カタカナ語を使えない、という制約も、プラスに働いています。

(ここで「プラスに働いている」と、カタカナ語を使うのは、とてもハードルが低いのです。
「ハードルが低い」も、漢字に置き換えようとすれば、ちょっと難しいのです。)

十二国記シリーズは、古代中国を思わせるファンタジー(空想)小説ですから、英語由来のカタカナ語は使えない。

私がそれに気付いたのは、5~6冊目に出てきた「矜持」という言葉でした。
「なんで『プライド』を使わんかったんやろ?
あっ!古代やし、中国やねんから、英語は使えんのや。」
と、振り返ってみれば、それまで一つもカタカナ語が使われていなかったことに気付いた次第。

ここに至って、『日本語が亡びるとき』(水村美苗著、ちくま文庫)で学んだことを思い起こしました。

西洋の言葉を日本に採り入れる時に、日本語に置き換える作業をしてくれた、江戸・明治期の秀才達(新井白石、福沢諭吉など)。

現代において、その労作業を放棄して、外来語をそのままの音で受け入れることは、一面、安易なようですが、他面で、西洋に遅れることなく母国語で学問ができるという効果をもたらします。

昔、外国語(中国語)を読み下すために発明されたカタカナが、現代においてもやはり、外国語(西洋語)を表記するために使われている。

漢字、ひらがな、カタカナが存在し、アルファベットそのものまでも文章に入れ込んでしまえるという柔軟性が、日本語の特性でもあります。

とは言っても、安易にカタカナ語に逃げていたのでは、文章を作るための筋力が衰えるように思います。

やはり、十二国記シリーズの格好良さは、内容の良さもさることながら、著者の鍛え抜かれた文章力の凄味からくるように思います。

私も、研ぎ澄まされた文章を作れるよう、安易にカタカナ語を選ぶことなく、筋力トレーニングに励みます。あっ

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