凛としたもの 2

梨木香歩さんのエッセイ
『炉辺の風おと(ろへんのかぜおと)』(毎日文庫)
を読みました。

著者は、八ヶ岳の中腹に小さな山小屋を購います。そこでの、草木や鳥、小動物などに囲まれた素朴な明け暮れが記されています。

以前に、『やがて満ちてくる光の』(新潮文庫)で感服した「凛としたもの」を、また味わっています。

「凛としたもの」を感じる原因は何か。

それは、ひとつひとつの言葉の使い方だと思います。

どれも、替えの効かない言葉が積み上げられて文章になっているのですが、その中でも、時折、脳内で光が一閃するような言葉使いがされています。

これは、普段使わない言葉や言い回しだからこそで、多分に私的なものであって、感じ方は人それぞれなのでしょう。

キラッと煌めいて
ハッと息をのんで
その度に、頭の疲れが取れる気がします。

これは、著者の、文章に向かう姿勢によるものなのでしょう。

著者の姿勢が表れている箇所がありました。

<以下、ネタバレを含みます>

休刊になった『新潮45』という雑誌の最後の号に関して語られた部分(79頁)

「一つの言葉と真摯に向き合う。そうでなければ伝えたいことは何も伝わらない。
そういうことを、私は当の新潮社との仕事を通して確信してきた。
彼女たちとともに、『てにをは』一つに頭を悩ませ、一文を仕上げるために数日ともに考え続け、校閲の有能さに脱帽したりもした、あの日々はすべて、『言葉と真摯に向き合う』、そのことのためにあった。作家であろうが、評論家であろうが、政治家であろうが、およそ言葉を使って、人になにかを伝えたい、と思うものは、皆、同じはずだ。」

こういう気構えのある人の書く文章に触れて、癒され、励まされています。

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